あたりは終りのない霧に閉ざされている。
すでに夜は深いというのに、あたりは仄暗い水底のように、ぼんやりと薄暗かった。
ふたりは、その薄暗がりのなか寄り添い、うずくまるように座っていた。ひとりは枯木のように干涸らびた老人。もう一人は痩せ細り、疲れ切った顔をした若者。たとえ、朝が来ても、ふたりの瞳に光が注がれることは無い。
ぽとりと、若者の肩に、老人の骨張った手のひらが当てられた。
「疲れたのか」と老人は尋ねた。若者は黙っていた。
「誰か来たのか」と老人は、また尋ねた。若者は寒さで湿った鼻を擦るとあたりに耳を澄ませる。「誰も来ません」若者はかすれた声で言った。「多分、道に迷ってしまったのでしょう。人里からもかなり離れてしまいました」そして黴びたぼろのような服の袖で洟を拭った。「お師匠様、今夜は、この冷たい土の上で眠らなければなりません」
老人は首を横に振った「目覚めていよう」そして、霧の中に白い息を吐いた。
「朝まで目覚めていよう。メディート様が瞳を閉じた霧降る夜に眠りに就けば、死者が私たちを仲間と思って、連れて行くかもしれないから」
老人は、古ぼけた竪琴を赤子のように胸に抱いている。若者の手にも真新しい竪琴が握られている。
老人と若者は、共に旅を続けていた。ふたりは声と心が奏でる歌と物語を、民草に売って生きている。老人は、若者の師であり、古い歌と物語を若者に教えた。その代わり、若者は、老人の杖となって、老人と共に歩く。盲目の老人が生きるためには歌を唄うしかなかった。そして、盲目の若者が生き延びるためには、老人から歌を学ぶしかない。
「そうだ。おまえに歌を教えてやろう」老人は、古ぼけた竪琴を胸に抱く。若者はあわてて、自分の真新しい竪琴の弦を張り始めた。若者の弦は強張り、きぃきぃと音を立てる。
「私は、或る物語を知っている。
これから、私は、おまえに、その物語を話そう」
老人の枯れ枝のような指が亜麻色の柔らかな弦に絡み付いていく。若者は何かに耐えているかのように口をつぐみ、全てを記憶に残そうと、耳を澄ませる。老人は乾いた唇をそっと開いた。
「おまえは、ラムザス人の奏でる弓琴のことを知っているか。
あの、弓と弓の、弦と弦を擦りあわせ、
女の泣き声のような音を奏でる琴のことだ。
私たちの奏でる竪琴のように弦は爪弾くためのものではなく、
弓琴の弦は風になびく馬の鬣や、
ラムザス女の黒曜石のような髪を寄り合わせて作る。
ラムザス人は知らない。
弓琴は妖精族の手によって生まれた。
古の夢の時代、良きものは全て妖精族の手によって生まれた。
歌や旋律、心によって語られるものは、全て妖精族の手によって生まれた。
おまえも、憶えておくがよい。
私たちは、その稚拙な真似事をしているにすぎない。
しかし、全てが忘れられてしまった後には、その稚拙な真似事だけが、
全ての良きものを知る手がかりになる。
私たちの奏でる竪琴。
ラムザス人の奏でる弓琴。
風妖たちの奏でる風琴。
皆、古の夢の時代の、本当に良きものを真似た玩具にしかすぎぬことを。
おまえは。おまえだけでも、よく憶えておくがよい。
その妖精族は弓琴に似た琴を手にしていた。
その妖精族に、その琴の名を尋ねれば、彼は、こう答えるだろう。
『これはフェレルメライ。
死んだ女の艶やかな骨に、死んだ女の艶やかな髪を張った琴。
時には、女の楽しき声を奏で、時には、女の哀しき声を奏でます』
彼の言葉を聞いたからと言って、畏れ、驚くことはない。
私たちの奏でる竪琴でさえ、
死んだ樹の肉体に、死んだ馬の毛を蝋で固めた弦を張り、
死んだ牛の角の欠片で爪弾くのだから。
その妖精族の奏でる琴の音は、
立ち尽くす、枯れた葦原を波立たせ、遠くへと響く。
その琴の音を聴くと、
猫は、欠伸をして、言葉を思い出した。
犬は、切なげに顔を上げ、風の色を見つめた。
兎は、鼻をぴくりと動かし、時の落ちゆく匂いを嗅いだ。
花は、気怠そうに首を傾げ、そっと瞳を開いた。
そして、
言葉ある種族は皆、
その琴の音が流れるひとときだけ、
忘れたくないはずなのに、忘れてしまった、
大切な夢の記憶を思い出す。」
老人は、ひたりと言葉を止めた。
「生きとし生ける者にとって、それ以上に、哀しいことがあるだろうか」
老人は、ひび割れた唇を固く閉じる。
音もない暗闇のなか、時間だけが、落ちる蜜のように、ゆるりと流れた。
「あなたは、聴いたんだ!」
若者が口を開いた。
「お師匠様。あなたは聴いたことがあるんだ。そのフェレルメライの琴の音を」
若者は、見えない目を細めて、老人の影を探した。
「教えてください。お師匠様。あなたは、その見えない目で、どんな夢を見たのですか」
老人は何も言わなかった。若者は、這うようにして、暗闇のなか、老人の姿を手探った。
「お願いです。お師匠様。嘘でも良いので、教えてください。僕も、あなたが見た夢を知ることで、この暗闇の生に希望を持つことが出来るかもしれない」
若者の手は、老人の枯木のような足を掴んだ。
「夢を見た」
老人は言った。
「夢の中で、私はひとりの裕福な農夫で、美しい妻と、たくさんの子供に恵まれていた。
もちろん、私の目は、多くの美しい景色を、そのままに見ることができた。
妻は言った。『ようやく目を覚ましたのですね』と。
『あなたは、忘死病に冒されて、ずっと眠り続けたまま、幾年も夢の中で過ごしていたのです。でも、あなたは、もう大丈夫。あなたは、夢の中で、100万の歌を聞きました。100万の歌を歌い、100万の歌を奏でました。また、あなたが夢の中から出られなければ、あなたは、私の言葉を思い出してください。100万の歌を聞き、100万の歌を歌い、100万の歌を奏でれば、あなたは目を覚ますことができる』
そして、私は思ったのだ。私は、どうして、そんな大切なことを忘れていたのかと」
老人は動き始めた。
「行こう。もうすぐ夜が明ける頃だ。
また、新しい街に行き、新しい人に出会い、そこで、古い歌を奏でることにしよう。
私は、もうすでに100万の歌を聞いた。もう少しで、100万の歌を歌い、100万の歌を奏でることになる。そして、私は目を覚ますことができる」
若者も立ち上がり、老人に肩を貸した。
「お師匠様。それは夢だ。」そう心の中で呟きながら、肩に当てられた枯れた手のひらに自分の手を重ねた。
それから、三ヶ月が経った。霧の季節は終わり、秋になった。
アムレディアヌンの美しい紅い風景のなか、あの名高き“うさぎの足跡亭”の演台で、老人はひとつの歌を歌い終え、しばらく、口をつぐんだ。
「私は100万の歌を歌った」老人は言った。「私は100万の歌を奏でた」
あたりは観客の拍手と声援に包まれている。
若者は何も言わなかった。
老人は、湿った吐息を、何度も、何度も繰り返し吐いた。
拍手は、強く、大きくなっていった。
「私は、ずっと目を覚ましていたのだ」老人は呟いた。
若者は黙ってうずくまり、老人に肩を貸した。若者の肩に、老人の汗ばんだ手のひらが当てられた。
老人が生きるためには歌を唄うしかなかった。若者が生き延びるためには、老人から歌を学ぶしかない。
そして、二人は王の道を歩く。
著:小林正親 2004年9月4日