今、この質問に答えることができる人はおそらく国語の教師である。あるいは、高度な言語マニアである可能性も否定できない。どちらにせよ、普段口語よりも文語に接する機会の多い人間であると推測される。
なぜなら、日常会話において句読点が意識されることはほとんど無いからである。というのも、会話においては“間”というものが存在する。人はこの“間”(これにはアクセントや口調といった要素も含まれる)によって、発言に込められた意図を汲み取り意思疎通を行う。
一方、文章上では“間”と言うものが存在しない。必然的に、ニュアンスから意図を読み取るといったことはできない。そのために、いわゆる文語文というものは厳密性を必要とする。厳密に意味の定まった文章というものは、えてして堅苦しいものとなりがちである。
なぜならば、発言の意図を正確に伝えるためには、異なった解釈ができないような表現を用いなければならない。すると、法律用語のような堅苦しい言葉になってしまう。そういった堅苦しい言葉を解り易くする為に、句読点というものが存在するのである。
句読点というものは、単純に文を読み易くするだけでなく、その発言・話題が継続するか否かを判断する材料にもなる。すなわち、言葉の最後に句点がつけばそれは完結していることを示し、読点がつけばそれは一時的な中断あるいは意味の転換を示すのである。
ここで、名前というものは品詞区分でいうと名詞であり、名詞で文章が終わる場合を体言止めとよぶ。
体言止めとは強調の手法である。この体言止めを倒置法と組み合わせることで、より強い強調を得るという手法は昔からあるが、名前のあとに句読点をつけることでその名前を印象付けるという手法はここ数年で現れた新しいものである。
注目すべきは、名前のあとに句点がつけばそれは完結または完成を表わすのであり、名前の持ち主が完成(あるいは終結)した存在であることを示すということである。
一方、名前のあとに読点がつく場合はその存在が未だ発展・変化の可能性をもつということを示す。つまり、名前のあとにつく句読点によってその存在が閉じているか開いているかを判断することができるのである。
「娘。」は完成したパラダイムである“UNION”ということになり、「弘、」は未完成のパラダイムすなわち“TRADITION”ということになる。
個人的な話で恐縮だが、私は“TRADITION”の方が好きである。てゆーか“UNION”キライ。
さて、そろそろ本題に入ろうと思う。
私はヴァンパイアに挫折した人間である。ルールブックを買っても読みきれなかったのだ。
そんな私がメイジには惹かれた。これを買わずに何とするか。そう思った。
何に惹かれたのか。それは“魔法”である。自分のイメージによって千変万化する“魔法”。(自称)オカルトマニアの私が外せるわけがない。それは反逆を意味する。
そして、それは WoD との出会いでもあった。
その言葉を人に伝えるのに文章を用いるならば、私は最後に句点をつければよいのか、それとも読点がふさわしいのであろうか。
私にとって、WoD は閉じた世界なのかそれとも発展し広がってゆく世界なのか。
また、それはこういった文章で厳密に表現できるものなのか。
私にはその判断がつかない。
よって、より表現の豊かな形態、すなわち実際のセッションにて語りたいと思う。
逃避かもしれないが、未だ WoD の深奥に踏み入ることの出来ぬ私にはこれが精一杯である。